茶席の禅語  「喫茶去」

茶の湯の世界ではあまりにも有名な言葉に「喫茶去」てのがあります。
普通に中高の授業で漢文を勉強した普通の人は「茶を喫んで去れ」と読むよね。
私も昔そんな風に読んだ。
ところがこの「去」は助辞であって意味がないんやと教えられた。
あってもせいぜい意味を強める程度らしい。
やから、これは「茶を飲め」あるいは「お茶をどうぞ」てゆう意味なんですよ、と。



出典は五灯会元『趙州録』
「師問二新到。上座曾到此間否。云不曾到。師云。喫茶去。
又問。那一人曾到此間否。云曾到。師云。喫茶去。
院主問。和尚不曾到教伊喫茶去即且置。曾到為什麼教伊喫茶去。
師云院主。院主應諾。師云。喫茶去。」

趙州禅師は誰に対しても「かつてここに来たことがあるか?」と問いかける。
来たことがないと答えた新人にも、一応は悟りを開いたらしい経験者にも、
そしてその問答に不審を抱いた日頃親しい院主にも、等しく「喫茶去」と言い放つ。

心の垣根をすべて取り払い、相手が誰であるのか、みたいなことにはお構いなく、
ただ心を開いて無心に相手に向き合え、ってゆう教えであるらしい。
相対的な分別、自他、過去現在、凡聖、貧富、貴賎、老若男女、とかなんとか、
一切の意識を断ち切った絶対の境地が「喫茶去」なんやろう。



つまりは、無心であれ、てゆうようなことらしいと、あの頃の私は納得した。
亭主が茶を点てて客にすすめる時は、誰に対しても等しく「喫茶去」であるべきや。
素晴らしいと思った。

DSC00140.jpg

けど、何か引っかかる。
違和感があるなぁ、ってずっと思ってた。


「去」を辞典で調べたら、確かに助辞として、動作の継続や趨勢を示すとある。
けど何でここに助詞が必要なん?
漢詩やったら判る。
文字数を合わせるために意味のない文字を付け加えるかも知れへん。
脚韻を踏むために一文字を付け足す可能性も考えられる。
けど、これは漢詩の一節を抜き出したんやなくて、あくまで問答の言葉。
「喫茶」だけでええんとちゃうのん?

態々「去」をつけるんは、つまり「去れ」って言いたいと考えるべきやろ。
調べてみたら、助辞云々を言い出したんはどうやら日本の禅宗らしい。
本家の中国では、文字通り「喫茶して去れ」と読むのが主流やと。
うん、我が意を得たり。

禅の修行僧は各地を渡り歩いて、己の信じるべき師を探した。
師匠たるべき人もまた、自身の教えを継ぐべき器量のある弟子を求めた。
彼らの間で交わされる問答は、お互いが相手の力量を計る真剣勝負やったんです。

禅院では僧侶の従うべき厳格な規範があり、その遵守が求められた。
その規範には喫茶の儀礼も定められ、この禅院茶礼は日本にも伝わってる。
しかも当時の茶は嗜好品ではなく、覚醒効果のある薬やったんを忘れたらあかん。



且座」の記事で説明した「且座喫茶」より、この「喫茶去」の方が更に表現がキツイ。
「まだまだやな、お茶を飲ましたるからいっぺん帰って出直しといで。」
或いは「お話にならへん、お茶でも飲んでさっさと帰れ。」
そんなとこかな。



何の文献に乗ってた話なんか忘れてしもて確認でけへんねんけど、
茶の湯の祖とされる村田珠光は、あの頓智で有名な一休宗純に参禅した。
一休さんから出された公案がこの「趙州喫茶去」やったと記憶する。
珠光はこの難問をクリアして印可を受けた訳で、
「茶禅一味」ゆうて禅思想と茶の湯が不可分になってくんはそれ以来のことらしい。
けど珠光はどんな答えを返して合格しはったんやろか、
そこが一番大事なとこやのに、とんと覚えがない。



まぁ、我々茶の湯を楽しむことを旨とするものとしては、
こんな風に解釈するのがええんやないかなと私は考えます。

「せっかく来はったんやからどうぞお茶を召し上がれ。
けどもうちょっとお茶のことを勉強しはったら、もっと楽しくなると思うよ。」



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No title

喫茶去の去の解釈、目からうろこです。
本当に、そのほうが心に響きます。

全体というか世界をどう見るかということと、
言葉の意味は繋がっていなくてはおかしいのだけど
ぞんざいにしていることにあらためて気が付きました。
(と、今言いたいことも言葉が上手く選べなくて
困ってしまいますが)

ただ去れ、というのでなくて、お茶を飲んで、というのが
また味わい深く思えます。
素敵なお話をありがとうございました。

Re: 目から鱗

maruさんへ。
こちらこそ、賛同のコメント有難うございます。

喫茶去

       喫茶去


教えを乞うて訪ねた寺でのやりとり

  茶でも飲んでいきなされ

  当山の茶の味 生涯忘れ得ぬでありましょう 頂戴して参ります

私ならそう言って茶を戴いて寺を後にします。

趙州の「喫茶去」の話、本来はこれだけのことのように思います。
趙州は禅の本質を一言で言い切っているわけです。
茶を勧められた意味が理解できぬからこそ再訪するわけで、これは未熟でしょう。
いつも側にある者なら趙州の心に気付けぬようではちょっと情けない。

三人に対して同じ言葉を発したからといって、誰に対しても云々と理解するのは飛躍しすぎるように思います。
誰に対しても云々というのは相手が複数であってこそ成り立つ理解であって、
それでは最初の一人に対して言った「喫茶去」に意味が無いことになります。

それ以外の言葉では表現できない、ただそれだけのことだと思います。

目の前の趙州から 茶でも飲んでいきなされ と言われたあなたは平等を感じますか。

     如何なるか是れ仏法の大意

     喫茶去

これが全てだと思います。

Re: 喫茶去

風顛猫さん、ご意見拝読しました。
有難うございます。

私も平等は感じませんね。
それに私は「去」に拘っただけですし。

しかしレベルの違う三者に対して同じ言葉を言うたんやから、
なおさら仏法の大意を伝えたってゆうよりは、
ただ叱り飛ばしただけのように思えます。





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